また、オフに、平沢大河、酒居知史、種市篤暉の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するオークランド・トゥアタラに派遣されることが決まった。, 11月6日、ケニス・バルガス内野手の獲得を発表した。その他にも、元楽天の細川亨捕手や元日本ハムのブランドン・レアード内野手、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューし、元横浜の選手でもあるブランドン・マン投手、メジャーリーグ出場経験のあるジョシュ・レイビン投手を獲得した。また、広島東洋カープからFA宣言した丸佳浩外野手の獲得にも乗り出したが、読売ジャイアンツに争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。, 開幕戦では楽天相手に中村、加藤、レアードの3本のホームラン、藤原恭大のプロ初ヒットなどもあり勝利。しかし開幕4試合連続ホームランを打った新加入のレアードや中村、加藤などの好調も虚しく4月11日には最下位転落。そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。7月4日、阪神タイガースから石崎剛を高野圭佑とのトレードで獲得[86]。7月14日、レオニス・マーティン外野手の獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。楽天に僅差で躱され4位で終了。2位のソフトバンクに17勝8敗大きく勝ち越したが、優勝の西武には8勝16敗1分、最下位のオリックスには9勝15敗1分に負け越した。荻野貴司がベストナイン、ゴールデングラブ賞を初受賞した。, プエルトリコで行われるウインターリーグに岡大海、山本大貴、安田尚憲の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに鎌田光津希、原嵩、松田進の三選手を派遣。, オフに福浦和也が引退し、11月1日、来期より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチに就任することが発表された。また、同じく引退した阿部和成が二軍サブマネージャー、伊志嶺翔大が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任した。荻野貴司、益田直也がFA権を行使せずに残留するも、鈴木大地は楽天にFA移籍した。涌井秀章も金銭トレードで、酒居知史もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。, いっぽうドラフト会議では「令和の怪物」と評された佐々木朗希を4球団競合の末獲得に成功。補強にも積極的に動き、楽天から美馬学、ソフトバンクから福田秀平をFAで獲得。一度のオフにFA選手を2人獲得するのは球団初のことである。楽天からは他にもFAの人的補償として小野郁を、また、自由契約となった西巻賢二とフランク・ハーマンを獲得している。さらに、元広島のジェイ・ジャクソンも獲得した。, また、元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元BCリーグ富山のホセ・フローレスを育成選手として獲得した。, シーズン終了後の12月1日付で球団社長の山室晋也が退任し[注 22]、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された[88]。, 1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めた重光武雄が大韓民国・ソウル特別市に於いて老衰のために死去(98歳没)[89]。, 3月10日、前年まで阪神タイガースに在籍していた鳥谷敬を獲得[90]。背番号は00。, 3月24日、球団の株主総会と取締役会において、1月に死去した重光武雄の次男で、3月18日に親会社ロッテホールディングスの会長職に選任されたばかりの重光昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。重光は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった[91][92]。, 6月28日、対オリックス戦において6連勝。新型コロナウイルスの影響による変則日程で、2020年の開幕直後は同一カード6連戦が組まれていたが、同一カード6連勝はプロ野球史上初となった[93]。しかし8回を任されていたジャクソンが7月9日に突如退団し、翌10日に大麻所持容疑で逮捕された。また開幕から新戦力の福田秀平を怪我で欠く中、シーズン中盤にも故障者が続発し、レアードや種市篤暉、松永昂大、ハーマンなどが相次いで離脱。その中で9月7日に読売ジャイアンツから香月一也とのトレードで獲得した澤村拓一[94]がシーズン終盤にブルペンを支えた。厳しいチーム事情の中でも首位ソフトバンクとの直接対決では大きく勝ち越しており、9月末の段階で首位ソフトバンクに迫る勢いで優勝争いを演じていた。10月9日までは11勝5敗1分だったが、10月10日から11月4日まで6連敗し、最終戦の11月5日に勝ち、ソフトバンク戦は12勝11敗1分だった。最下位オリックスには18勝5敗1分と大きく勝ち越したが、3位西武には9勝15敗、4位楽天には8勝15敗1分と負け越した。, しかし10月4日、岩下大輝とチームスタッフ1人が新型コロナウイルスに感染していたことを発表[95]。それを受けて、1軍の監督やコーチ、選手、スタッフ全員に対して行われたPCR検査の結果、荻野貴司、角中勝也、清田育宏、菅野剛士、鳥谷敬、藤岡裕大、三木亮の7人も新型コロナウイルスの陽性判定を受けたことを同月6日に発表[96]、岩下の濃厚接触者も含めてこれら全員が1軍登録を抹消される緊急事態となり、さらに21日の西武戦でマーティンが左足首を捻挫して負傷離脱。それでも10月8日には首位ソフトバンクに対してゲーム差0に迫ったがその後は失速し、一方でソフトバンクは投手陣が安定して10月10日から22日まで破竹の11連勝と波に乗り、一気に離されてしまった。22日に自力優勝が消滅し、27日のソフトバンク戦(PayPayドーム)に敗れ、ソフトバンクの優勝が決まったことにより優勝を逃した。ソフトバンク優勝決定後、11月に入り西武との2位争いとなり一時的に3位に転落するが、11月8日に西武との直接対決を制し2007年以来13年ぶりに2位となり、CS進出を確定させた。CSではソフトバンクに2連敗し、ソフトバンクがアドバンテージの1勝を含めて3勝としたため敗退した。, 千葉ロッテマリーンズのページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 球団の経営権利譲渡で、連盟登記の球団名やユニフォームなどを全て従来のままとしたケースはこれが初めてであり、類似のケースとしては, この年のアジアシリーズも初回大会であり、毎日時代のパ・リーグのリーグ戦、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの, 開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。, シーズンの通期勝率が2位以下で日本一となった例は1975年の阪急、1982年の西武、2005年のロッテがあるが、各当時のルールでは全てリーグ優勝の扱いとなっていた。, ただし平成17年(2005年)では第2位の状態でプレーオフを制してリーグ優勝し、そのまま日本一となっている。, 2018年と2019年にソフトバンクが2年連続でリーグ2位から日本シリーズに進出し、日本一を達成。, 18時半開始はパ・リーグでは過去に西武ライオンズが1985年ごろまで実施。更にオリックスが, 平日のナイターで開始を15分ずれこませているのは、当初の18時開始では仕事終了後だと「試合開始に間に合わない」、18時30分開始では「帰宅時間が遅れる」という苦情が出たことや、駅からやや時間がかかるためでもある。, このときのユニホームデザインは、韓国・ロッテジャイアンツのユニホームにも応用された。, この年はヤクルト、ソフトバンク、西武、広島も交流戦を中心に過去のユニフォームを着用しており、復刻ユニフォームの当たり年である。, このデザインのユニフォームは2016年現在、NPB12球団で最も歴史の長い通常使用のユニフォームとなっており、また2014年で使用20シーズン目となり、1973年から1991年にかけて19シーズン使用されたユニフォームを上回り、球団史上最長使用のユニフォームともなっている。, なお同様例は巨人と西武(ドームを本拠としているため、天然光だけではボールが見えにくいなどにより開催が困難なため、主管開催の会場変更・開催日程の変更などが生じた)を除く他の在関東球団のホームスタジアムにおける主管試合でも行われた。, 日本ハムは現在は週末・休日は札幌ドームでの開催を優先していることもあり、地方開催のうち道内にある, そのため、親会社から毎年「広告宣伝費」名目で赤字を補填してもらっていた。ちなみにこの場合、プロ野球球団が社会の公器でもあることから、球団の赤字を補填する金額分は親会社としては非課税扱いとされている。, 不定期。TVKが担当する大洋(DeNA)、ヤクルトの試合放送がない時に行っていたが、巨人主催試合との重複開催である場合、18時台と21時前からは日本テレビとのリレーナイターをしていたため、ネット局があればその時間は裏送りだった。, 但し、プレーオフ勝者をリーグ優勝としていた2005年に優勝はしており、優勝から最も長く遠ざかっているのは, 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 EXTRA(2) [パ・リーグ編] (週刊ベースボール別冊初冬号)、ベースボール・マガジン社、2020年、76頁, 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号), また小宮山は、最終的な選考結果は選手にもまったく知らされず、知ったのはお披露目記者発表の時が初めてだったと語っている。, なお、文化放送ライオンズナイターでの対千葉ロッテマリーンズ戦中継時のベンチサイドリポーターにマリーンズ熱血応援レポーターかわのをとや起用は継続している。, 【12月23日】1986年(昭61)ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表, 【1月4日】1999年(平11) 小宮山悟、ケンカ売る「球団改革しなけりゃ出て行く」, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/19/kiji/K20110519000848440.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/09/kiji/K20110609000984770.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/08/kiji/K20110908001577950.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/29/kiji/K20110929001717620.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/30/kiji/K20110930001732200.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/09/kiji/K20111009001789110.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/23/kiji/K20111023001873580.html, http://japanese.joins.com/article/873/143873.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/05/kiji/K20120405002981370.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/11/kiji/K20120511003232420.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/19/kiji/K20120719003710600.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/31/kiji/K20120731003802970.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/10/kiji/K20120910004084270.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/04/kiji/K20121004004252780.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/09/kiji/K20121009004297420.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/07/kiji/K20121007004271990.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/09/kiji/K20130509005770810.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/06/kiji/K20130706006162310.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/18/kiji/K20130718006242180.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/26/kiji/K20130926006694700.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/26/kiji/K20130926006690480.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/04/kiji/K20131004006749300.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006773370.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/21/kiji/K20131021006854620.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/25/kiji/K20140925008993240.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/28/kiji/K20140928009011330.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/06/03/kiji/K20150603010469480.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1506626.html, http://full-count.jp/2015/10/04/post19357/, ロッテ、WBCキューバ代表のサントス獲得を正式発表! 林本部長「リードオフマンが絶対ほしいという大きな課題に見合った」, https://www.daily.co.jp/baseball/2020/06/29/0013464995.shtml, 巨人・沢村、ロッテ・香月と電撃トレード!「これまで応援していただきありがとうございました」, http://www.chibanippo.co.jp/sports/lotte/293181. 毎日オリオンズ時代のユニフォームです。 画像はこちら、、、、 今の戦のユニフォームの元になったものです。 毎日オリオンズの1950年から57年まで 着用されたものなのですが、まさに シンプル イズ ベスト 札幌、ミズノ提供の来季ユニフォーム発表! 1stのデザインは「『赤と黒は我なり』を表現」 12/5(土) 19:18 配信. マリーンズ公式マスコットキャラクター『マーくん』公式twitterアカウントを開設!! サードユニフォーム付チケット販売 配布予定来シーズン . プレゼント喜んでくれるといいですね☆ ユニホーム 配布予定来シーズン . 大沢 啓二 監督 . 球団創設70周年を記念して、マリーンズストアでは5月23日(土)から、オンラインストア限定で毎日オリオンズの復刻レプリカユニホームの予約販売を数量限定で開始します。パ・リーグと日本シリーズの初代王者に輝いた1950年の毎日オリオンズ。その当 マリーンズミュージアムを実際に訪れた旅行者が徹底評価!日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルでマリーンズミュージアムや他の観光施設の見どころをチェック! マリーンズミュージアムは幕張で22位の美術館・博物館です。 id非公開 さん. 野球の方も頑張って下さいね☆ 毎日オリオンズ ... 千葉ロッテマリーンズ・ロッテオリオンズ歴代ユニフォーム . Copyright © SELECTION All rights reserved. 濃人 渉 監督 69年 69勝 54敗 7分 3位. 1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した専用球場・東京球場に移転。, 1964年、球団名を東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している)。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1965年1月に引き上げ、なおかつ後援も1966年度シーズンをもって打ち切っている。これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。, 優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し[注 4]、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている[9]。, 1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名をロッテオリオンズに改称[10][11]。ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。首位阪急と5.5ゲーム差の3位。, 10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。, 1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる[注 5]。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。7月13日西宮での対阪急戦で江藤愼一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され二軍監督に降格、後任に大沢啓二二軍監督が就任。この年は、優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したジョージ・アルトマンなど[注 6]チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった[12]。, 前年と一転、Bクラスの5位に転落。本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。, この年から宮城県仙台市の宮城球場(現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地)を中心に(翌年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(歴代本拠地参照)。日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否、このためフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現在の北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳が西鉄ライオンズ(→太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ)の経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い[注 7]、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 01:37 UTC 版), 9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された[2]。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請。, リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。, この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。, パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝[3]、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。打者では別当薫が本塁打王、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。, 7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰[4]。, 首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる[5]。, 山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率をあげ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。, シーズン成績は3位。11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団[注 2]が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社と大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任するという「逆さ合併」だった。, 葛城隆雄が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった[6]。オフには、この年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。, 西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは、4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。, この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた[7]。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある[8][注 3]。, 3年続けてBクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。 数年前に購入した、ロッテオリオンズユニフォームです。目立つ汚れやダメージはありませんが、一度着用した記憶がありますので、ご理解ある方のみ入札をお願いします。サイズはMになります。来場記念でもらう物ではなく、マリーンズのサイトで購入した、デザント製のしっかり また、東京に来た際は当店にお立ち寄りくださいね☆, 弊社でご注文頂いた場合、数時間以内に自動配信メール、配送の前日までに配送確認メールを配信しています。, 予約商品、海外からの取り寄せ商品は一部返品・キャンセルが承れない商品がございます。. ライオンズ70周年シリーズ . また、色々お話したいです。 かつて東京都 文京区と荒川区を本拠地としたプロ野球チーム(球団)、毎日大映オリオンズ (略称「大毎」。 1958年 - 1963年。 現:千葉ロッテマリーンズ)、後身球団である東京オリオンズ(1964年 - 1968年)、その前身球団である毎日オリオンズ(1950年 - 1957年)に関するカテゴリ。 1969年ロッテオリオンズが誕生してから2020年千葉ロッテマリーンズまでの年度毎のチーム成績をチーム名や監督とともに一覧にしてご紹介させていただいています。 毎日オリオンズ誕生 初代パ・リーグ王者として輝かしい歴史のスタートを切る。 1952. 日本野球機構(npb)オフィシャルサイト。プロ野球12球団の試合日程・結果や予告先発、ドラフト会議をはじめ、事業・振興に関する情報を掲載。また、オールスター・ゲームや日本シリーズなど主催試合のチケット情報もご覧いただけます。 埼玉から当店まで1時間かけて自転車でお越し 1950年: 画像データ等の勝手な流用は固くお断りします。掲示板等への直リンクも禁止します。 1950年、セ・パ両リーグ分裂の大きなきっかけは、新球団、毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の日本野球連盟への加盟問題だった。 千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、英語: Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。 ロッテオリオンズ . これはまさしく伝説のユニフォームである。 しかし50年の2リーグ分立騒ぎの中で、別当薫、土井垣武、呉昌征、本堂保次といった打線の主力打者が毎日オリオンズに引き抜かれ、ダイナマイト打線は崩壊。そしてこのユニフォームも姿を消した。 商品No.1 1958~1965年 大毎オリオンズ ホームユニフォームシャツ. ロッテの歴代監督について. 共感した. 毎日オリオンズ レプリカユニホーム(背番号無し) 商品コード : 000000006252: 製造元 : mizuno: 価格 : 8,000円(税込) 数量 : サイズ . 毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた ... -marines”のアーチと“40th anniversary”“1969-2009”の帯で囲まれた中に、青空と海をバックに歴代のユニフォームを模した色(左からオリオンズ初代、オリオンズ2代目、マリーンズ初代、マリーンズ現行)で空を飛ぶ4羽のカモメ。 2010年 - 2013 大毎オリオンズ ホームユニフォームシャツ ; 大毎オリオンズ ホームユニフォームシャツ 1960年 田宮謙二郎 榎本喜八 山内和弘 葛城隆雄の強力クリーンアップで「ミサイル打線」と恐れられました 商品の詳細. 12/30(月) 11時から19時まで12/31(火) 11時から18時まで元日(水) 定休日1/2(木) 11時から20時まで, 5月16 日~18日に京セラドームで行われいるオリックス対ソフトバンク戦で特別イベント「OSAKA CLASSIC 2014」といことでオリックスが近鉄時代・ソフトバンクが南海時代の復刻ユニホームを着用して当時両球団が本拠地とした大阪で試合を行っていきます。, 懐かしユニフォームを見ているだけでも当時活躍した選手を思い出される方も多いでは無いでしょうか?, 今年は、ソフトバンクと西武が6月27~29日(西武ドーム)・8月19、20日(ヤフオクドーム)の5試合で復刻ユニホームを着用するみたいですね☆, 西武は1979年から95年まで使われた青のビジター用、ソフトバンクは前身のダイエーが1989年から4年間着用したユニホームを着用予定です。, 復刻アイテムしてはファンの方から絶大な支持を得ているニューエラ製のキャップになります。, 福岡ソフトバンクホークスの前身、南海ホークスの歴代ロゴを復刻させたクラシックキャップシリーズとなっております。1938-40年:南海軍の「N」ロゴ、バックに当時の南海社章である通称羽車を刺繍モデル 1947-49年:南海ホークスへと改称した初年度モデル、白をベースに緑色のツバ、金色の「H」ロゴ、バックに筆記体で「Hawks」。 1951-55年:47年から88年まで使用されていた球団ロゴの鷹を採用。 1956-58年:チーム名のイニシャルを用いた「NH」ロゴ。 1969年:電車の車輪をモチーフにした「NH」ロゴで、Nが白、Hがオレンジの組み合わせ。 1976-77年:マスコットキャラクター「たかちゃん」の刺繍が付属, 本拠地の千葉移転に伴い、球団名を「千葉ロッテマリーンズ」に改名した記念すべき1992シーズンのデザインを復刻したデザイン, 千葉ロッテマリーンズの前身「ロッテ・オリオンズ」の復刻カスタマイズキャップ等、多数ネット・店頭での予約を開始しております。, マレーシアからお越しのお客様にスナップにご協力頂きました。 投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかしストッパー成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。野手では新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。また、前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦・田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。, 近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた[31]。4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱しセットアッパーの吉田篤史も不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。, 1999年には山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝え、結果として自由契約という形で横浜ベイスターズに移籍した)[32]。また90年代初期から中期を支えたWストッパーの河本がトレード志願でジャイアンツに移籍、成本も怪我で満足な投球ができず2000年に戦力外通告を受け退団した。しかし、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。, 2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している[33]。, このシーズンは特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。, 2003年オフ、韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された[34]。, バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃した。しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。, 今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージでは2戦先勝するも第3戦、第4戦と敗北。第5戦でも2点先制されるが、8回表に里崎智也の劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。その後もリードを保ち、福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした[注 9]。10月22日からの日本シリーズでは、第1戦(千葉マリンスタジアム)は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏1死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、コールドゲームとなる珍事が起きている。その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し優勝している[注 10]。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた[注 11]。また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。, 小坂誠が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフには、福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。, 3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け[注 12]。翌日も延長12回で引き分け[注 13]。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦がシーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。, 先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也・橋本将・田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位となっている。チーム防御率はリーグ最低となった。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに井口資仁を獲得。, ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。9月26日に「死刑」などのフロントを中傷するゲーフラを掲げた一部ファンに対し西岡剛がヒーローインタビューにて中傷行為を止めるように要請した。しかし9月27日にこれまでロッテの応援を引っ張ってきた(詳しくはマリーンズファンを参照)外野応援団・MVPが西岡の応援を妨害し、外野応援団・MVPに反発したファンから帰れコールが起こるなど球場は騒然としてしまった。これがきっかけで外野応援団・MVPは解散することになりスキンヘッドランニングなどのチャンステーマ、旧応援歌(一部は2010年も使われた)が廃止されてしまった。これら騒動の影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。バレンタインの後任にはヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格した。オフには韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。, 序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・南海ホークス以来37年ぶりとなった[注 14]。日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず[注 15]に日本シリーズを制した球団となった[注 16]。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフには小林宏之が阪神へ、西岡が大リーグ・ミネソタ・ツインズへそれぞれFA移籍している。また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーがなく現役引退。, 3月11日に発生した東日本大震災では、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている[35]。また開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり[注 17]、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として[36]以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落[37]。交流戦は8勝14敗2分の10位[38]。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる[39]。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成[40]するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録[41]、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定[42]、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて[43]。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差[44]。得点は球団史上最低記録となる432[注 18]、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の中村剛也(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった[注 19][45]。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している[46]。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブロー[注 20]がFA移籍で半年でロッテに復帰[47]。, 開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど[48]、序盤から首位争いをし5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し首位浮上[49]。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した[50]。しかし後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し[51]、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり[52]、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し[53]、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった[54]。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている[55]。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任[56]、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団[57]。10月18日、監督に伊東勤[58]が就任。, 5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち[59]、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に[60]、前半戦を2位で折り返した[61]。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが[62][63]、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した[64]。10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった[65]。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが[66]、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した[67]。オフに西武の涌井秀章をFAで獲得した。, 開幕から5連敗を喫し、チームは5月のルイス・クルーズから始まり6月の荻野、7月のクレイグ・ブラゼルと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、夏には最下位争いを繰り広げる羽目になった。シーズン途中にキューバ出身でメキシカンリーグの大砲・アルフレド・デスパイネを獲得[69]、9月25日の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定しロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった[70]。最終結果は4位に終わった。里崎智也が現役を引退し[71]、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。, チームは開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが4月中盤には徐々に脱落し、それ以降はソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。交流戦では一時は首位に立つ[72]も最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した[73]。その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に独立リーグのベク・チャスンを獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。そして10月4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定し、2年ぶりのCS進出が決定した[74]。クライマックスシリーズのファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。オフに今江がFAで楽天に、クルーズも巨人に移籍した。一方でソフトバンクからジェイソン・スタンリッジを獲得した。, 2月21日、新外国人のヤマイコ・ナバーロが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。, 開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われてしまった。それ以降ソフトバンクの後塵を拝する状況が続き、後半には日本ハムにも抜かれてしまう。しかしながらその後は3位をキープし続け9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出と31年ぶりの2年連続Aクラス入りが決定した[75]。クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦するも2戦全敗で敗退した。