殉死と言えば武士道的には美しくカッコいいものかもしれませんが、優秀な家臣が亡くなってしまっては、次の世代が困るということもあったのですね。 【閲覧注意】実はそんなルールが?切腹の種類と作法 9月13日は「乃木大将の日」といわれ、乃木希典陸軍大将が明治天皇の死に殉じたことで有名です。 目次. 大正元(1912)年9月30日。 そういった乃木希典に対しての批判を止める為に書いたのが. 森鷗外の「阿部一族」は、彼の死にまつわるお家騒動を描いたものです。, 島津歳久に関しては戦国真っただ中であり、兄に追われる途中で自害します。供の者たちがみな後を追ったため、これほどの人数になったのでしょう。, しかし寛文3(1663)年、4代将軍・徳川家綱による武家諸法度により「殉死の禁」が周知されました。この時期は、政治も儒学を取り入れた文治政治に移行するところで、旧来の武士的なものを排除していったのです。 そう、思わずにはいられない。, 参考文献 乃木希典夫妻の殉死  時代は、40年前に遡ります。 明治天皇御大葬の日の1913年9月13日午後8時。 明治天皇の霊柩の、皇居出立を告げる弔砲を聞きながら乃木希典(1849-1912)と妻静子(1859-1912)は、赤坂新坂町の自邸で自刃します。 (この記事は「乃木希典」の名で統一して書かれています)※冒頭の画像は、山路弥吉著「乃木大将」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)となります, まずは、どこから書き始めればいいのやら。 実際に、戦った当の本人が、一番どうしようもなかったと分かっていることだろう。しかし、人一倍責任感の強い希典は、多くの兵の命を失ったことに耐えられなかった。何が間違っていたのか。他にできたことはなかったかと。, 加えて、乃木希典は、この戦争で大事な2人の息子を失った父親でもある。いや、だからこそ、息子を失う親の気持ちが痛いほど分かったのだろう。余計に、責任を感じていたはずだ。, 明治39(1906)年。 度々、明治天皇の見舞いに訪れていた乃木希典。天皇からは、足音で分かるとのお言葉を頂くほど。それだけ病気回復を願っても、天に聞き入れられることはなく、崩御。, そして大葬礼の日。 明治天皇の崩御に際して、乃木大将が殉死したことは有名ですが、そのあとも殉死あるいは後追い自殺がたくさん起きたのでしょうか?漱石の「こころ」を読むにあたって、当時どのような状況だったのか、知りたいのです。よろしくお願いしま 赤坂区議会は、これまで「幽霊坂」と不吉な名称で呼ばれていた坂を、乃木希典が住んでいたことにちなんで、「乃木坂(のぎざか)」と改名。, さらに、である。 またまたやります、妄想ブックセレクト。今回は歴史はあまり興味ない方に、歴史って面白いなあって思って貰えるオススメ本を。縛りは5000円で。歴史がちょっと縁遠くなるのは多分、学校での暗記問題がきっかけではないでしょうか。人名、事件名、とにかく覚えなくてならない 夏目漱石のこころのあらすじ・登場人物・感想を5分でご紹介!先生は信じていた親族に裏切られ財産を奪わる。しかし先生自身も友人kを裏切りお嬢さんを奪ってしい、kは失意のうちに自殺。罪の意識に悩まされる先生は、私にその秘密を打ち明けて自殺へ。 第三軍を率いた乃木希典 . 今日のレビューは、書籍です。これは、ブログをお休みしていた期間に、何度か読み返していた本です。夏目漱石は、最も美しい文章を書く人だと思っています。長いのでね、… 細川忠利:19人 「遺言書」(山路弥吉著 「乃木大将」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション), 当初は、夫妻揃っての殉死は考えていなかったと推測される。というのも、乃木希典の遺書には、静子に相談するようにとの文言が書かれていたからだ。静子の死を念頭に置いていたわけではないのだろう。, ただ、それは夫婦のこと。相手がどのように感じ、どのような行動に出るかが分かっていたのかもしれない。, 死する順番は不明である。 彼の逸話は、成功も失敗も含めて驚くほど多く、どれだけ、国民の関心事となっていたかが分かる。, 乃木希典の幼少のときの名は「無人(なきと)」。 漱石が「こころ」を書いたきっかけは、乃木希典の殉死に影響を受けたとされています。 この事件が起きた時期は、明治天皇の崩御、乃木大将の殉死と明治の精神から新しい大正という時代への大きな転換期にあたります。 9月13日朝の乃木夫妻。 前掲の写真が撮影された乃木邸の応接室(乃木邸公開日に見学可能)。 乃木第三軍の旅順攻略戦はいかに描かれたか 『殉死』 の基礎的研究 (第Ⅲ篇) 愛知教育大学大学院修士課程修了 高木美栄 84 として描いたのである。かったのである。 【島津四兄弟の三男】慕われ度ナンバーワン?島津歳久 【最初は薬だった?】病弱だった熊本藩主・細川忠利のために作られた辛子蓮根. 榎本松之助 画作 「乃木大将」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション, 横山健堂が著した『大将乃木』には、当時の様子が記されている。 「神あかりあかりましぬる大君の みあとはるかにをろみかまつる」, 妻の静子も同様である。 希典よりも10歳も下で、長州出身の希典が希望していた「鹿児島の女性」であった。日露戦争に夫と2人の息子が出兵する際には、戦死も見据えて、異臭を放たぬようにと香水を持たせたような逸話を持つ女性である。, この日は、崩御された明治天皇の「大葬の礼」が挙行される日。ちょうど、明治天皇の霊柩を乗せた車が、皇居を出立する合図の弔砲が打たれたのも同時刻である。, 今回は、この明治時代に起こった「殉死」、そして、その後、神となった乃木希典夫妻について、ご紹介する。, 2人は、いかにして「神」となったのか。 『教科書には載っていない!明治の日本』 熊谷充晃著 彩図社 2018年7月, 生粋の京都人。生まれも育ちも京都で、大学時に未生流の華道師範代を取得。教育業界を飛び出し2年半、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その反動で、現在は北陸で馬車馬の如く執筆する日々。法律、ビジネス系記事から日本文化まで。日本の歴史、なかでも戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。北陸文化も発信中。. 生きて菩提を弔って欲しいのが個人的な心情でもありますが・・・皆さんはどう思いますか?, 関連記事 奉天会戦で日本軍がロシア軍に勝利 今日は何の日 明治38年(1905)3月10日. 乃木静子と2人の子息(冬湖・宿利重一著 「乃木静子」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション), なお、この日露戦争で、長男の勝典(26歳)、次男の保典(24歳)の2人が戦死。乃木家は後継ぎがいない状態に。そんな中での旅順奪還に、悲劇の将軍として、乃木希典は国民的敬愛の念で迎え入れられる。, その後、軍事参議官となり、明治40(1907)年には、多くの皇族や華族が通う学習院院長に任じられる。子を失った乃木希典に、その代わりではないが、多くの子を預けるとの明治天皇の意図があったようだ。将来の日本を背負う子らの教育に、生きがいを見出したのだろう。乃木希典は、全身全霊でその任に当たる。, 宿舎では、生徒と寝食を共にする生活。 以後、殉死の禁は大名家でも急速に広がっていきました。, ほかにも殉死にまつわるこんなエピソードがあります。 乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年 12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍 軍人、教育者。 日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。 階級は陸軍大将。 「こころ」解説、その25。kの自殺後。自分から孤独になり、死んだように生き続けた先生。その先生が、「明治の精神に殉ずる」と、最後に自殺を選びます。切っ掛けになったのは、明治天皇が崩御し、その後を追う様に乃木大将が殉死をしたことです。 旧乃木邸は、日清・日露戦争の両戦役に従事し、明治天皇崩御の後に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。現存する家屋は、乃木大将がドイツ留学中に見たフランス連隊本部を参考にして、自らの設計により明治35 年(1902)に新築されたものです。 (河合敦著『神社で読み解く日本史の謎』より一部抜粋), 明治45(1912)年7月30日。明治天皇崩御。 明治38年(1905)3月10日、奉天会戦で日本軍がロシア軍に勝利しました。今回は乃木希典の第三軍に注目しながらご紹介しましょう。 「出ましてかへります日のなしときく けふ(今日)の御幸(みゆき)に遭ふそかなしき」, これほどまでに実直な人もまたとない。 『こころ』の「明治の精神」とは。先生の自殺の本当の理由. ここに1枚の写真がある。 穏やかな朝の風景。 食卓を囲んで、夫は静かに新聞を読み、妻はその傍らに立つ。 大正元(1912)年9月30日。 何も変わったことのない、いつもの朝だった。いや、1つ変わっているとすれば。この日の2人は終始、にこやかであったという。 後に、漱石門下に入る芥川龍之介も乃木さんの行為を批判したよう。 しかし、漱石は明治と共に生きた人間なので、乃木さん推しであり. 歴史は研究によって、定説と思われていたことが覆ります。聖徳太子の実在は疑われ、鎌倉幕府は1192年ではなく1185年に。 加えて歴史に俗説がつきもので、しばしば信憑性が高くドラマのない説より、ドラマチックな俗説が一般的に流布します。 乃木 嘉永2(1849)年に長府藩士の乃木希次(まれつぐ)の三男として生まれる。今でこそ、代表的な軍人として語られることが多いが、じつは、幼少期は体が弱い少年だったという。この名前も、2人の兄が早世したので、強く健康にとの願いがこめられたもの。, その後、15歳で元服。なお、将来について悩んでいた希典(当時は源三)は、親戚筋の「玉木文之進(たまきぶんのしん)」を訪ねることに。文之進は、あの吉田松陰(よしだしょういん)の叔父であり、松下村塾の創始者でもある。, 希典は、武人を推す厳格な父を説得すべく力を借りようと、長府から萩までの70㎞を歩くのだが。反対に、文之進に、父の許しも得ずに来たことを激怒される。そこをなんとか耐え忍び、門下生として置いてもらうことに。, じつは、ここでの生活が、今後の希典を形作ったといってもいいだろう。心身共に鍛えあげられ、生粋の軍人魂が育まれたようだ。18歳で、第二次長州征伐にて長府藩報国隊として初陣。明治維新後は、新政府の陸軍少佐に抜擢され、青年将校への道をたどる。, 明治10(1877)年の西南戦争の際には、西郷隆盛(さいごうたかもり)率いる反乱軍と対峙。ここで、予想外の出来事が。なんと、希典は、明治天皇から賜った軍旗を敵兵に奪われる失態を犯すのである。あまりの自責の念に自害も考えていたという希典。だが、明治天皇に諭され思いとどまったという。, その後、10歳年下の、鹿児島出身の静子と結婚。 乃木希典 1849-1912 明治の陸軍軍人・漢詩人 山口県長州藩士の家に生まれる。少年時代から馬術・剣術・弓術・砲術さらに思想や詩歌を学び、武人としての教育を受けた。 この、こころという小説だっていう話。 明治天皇崩御の報を聞き参内する乃木. 同年9月30日午後8時過ぎ。 こうして、乃木希典と静子は、祭神となったのである。, 「うつし世を神さりましし大君の みあとしたひて我はゆくなり」 乃木神社(東京), 現在は、東京以外にも、全国に5つの乃木神社が存在する。 しかし、今日の日本、21世紀の世界の中の日本、ということを思うとき、漱石の何が最も日本人の精神に訴えるものであるか、と考えると、それは『こころ』の中で、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死に触れている文章であり、そこで「明治の精神」という言葉を出していることだと思う。 その音を聞きながら、乃木夫妻は明治天皇のあとを追って殉死。希典64歳、静子54歳。 乃木の殉死は鴎外もこれを取り上げ、「興津弥五右衛門の遺書」はじめいくつかの短編小説を書いている。 当時は乃木の死が引き金になって、殉死を論じることがひとつの社会現象になっていたほどであるから、漱石がこれを小説の中で取り上げたのは、ある意味自然なことだったともいえる。 日露戦争後は、全国を行脚し、遺族と傷病兵一人一人を見舞ったという。皇室からの御下賜品などは、戦争によって負傷や障害を持った人を収容した「廃兵院」に届けていたようだ。義理堅く、人情厚く、誰からも慕われれる人物であった。, 果たして、彼が現代に生きていたならば、なんというだろうか。 これが歴史上の偉人による殉死としては最後のものになるかもしれませんが、実はこれ以後も殉死はありました。, 昭和64(1989)年、昭和天皇崩御の際に4人の男性が後追い自殺をしたと確認されており、これも殉死ということになります。そのため、最後の殉死とはこのことになるのでしょうか。, 江戸時代初期頃、主君が死ねば「追い腹」と言って重臣や寵臣が殉死することが多くありました。 乃木希典の葬儀には40万人もの人出があったとか(一般的には20万人ほどとも)。その数は、伊藤博文の国葬を遥かに凌駕したという。電車の乗客は、東京に電車創業以来の人数が乗ったとの記載もある。, もちろん、批判する人も一部はいたのだが。多くの人は、こぞって乃木夫妻の殉死を賞賛したという。それだけではない。ただ褒め称えるだけでなく、実際に、東京・赤坂にある乃木邸へと、お参りに足を運んだのである。, こうなれば、国民の感情を推し量り、行政も動くことに。 伊達政宗:20人 鍋島勝茂:26人 この写真の撮影日に夫婦共に自刃。明治天皇に殉死した乃木希典が神として崇められるまで. その後も、乃木邸を訪れる人はあとを絶たず。この状況をみて、当時の阪谷芳郎(さかたによしろう)東京市市長は、乃木邸内の小社に乃木夫妻の霊を祀ることを決定。, これに後押しされ、乃木希典を祭神とする神社創建の運動が始まることに。そして、大正8(1919)年。ようやく、神社創立の許可が下りる。 13.漱石の『こころ』がわからない?② 「明治の精神」とは それでは、「明治の精神」とはいったい何なのか? 乃木大将の殉死をきっかけにしているところから、「明治の精神」を、「国家主 2度目は多くの戦死者を出した日露戦争の旅順攻撃の責任を取って。この2度とも、明治天皇に止められている。, 特に、日露戦争の旅順攻撃の戦略に批判が集中。乃木希典は軍事的に無能であるとの論争にまで発展している。ただ、当時は別にして。現在では、当時の大本営が敵方の要塞を過小評価し、武器や弾薬が不十分であった事実などが判明。様々な研究が進み、突撃するしか方法がなかったのではとの意見も多い。, それでも、乃木希典は違った。 かつては慕われた人物となるとそれは多くの殉死者を出しており、「殉死の禁」もありました。 漱石『こころ』と鷗外『興津弥五右衛門の遺書』と――乃木希典の殉死をめぐって すでに論評化され尽くした感のある本作を再読しようと感じたのは、漱石と鷗外の青春を『三四郎』と『青年』を比較的に読んだことがあったからである。 4代将軍・徳川家綱により武家諸法度で禁止令が出される以前に亡くなった大名は、多くの殉死者を出しています。, 確認できるだけでも、 特集 乃木殉死から100年 坂の上の雲 > 写真特集「乃木殉死から100年」. 乃木 静子(のぎ しずこ、安政6年11月6日(1859年 11月29日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、幕末・明治期の女性で、陸軍大将・乃木希典の妻。 乃木陸軍大将は大正元(1912)年9月13日、明治天皇の大葬が行われた日に夫人と共に殉死しました。 これが歴史上の偉人による殉死としては最後のものになるかもしれませんが、実はこれ以後も殉死はありました。 昭和64(1989)年、昭和天皇崩御の際に4人の男性が後追い自殺をしたと確認されており、これも殉死ということになります。そのため、最後の殉死とはこのことになるのでしょうか。 君主が亡くなり、臣下が後を追って自死することを殉死という。明治天皇大葬の夜、霊轜出門の弔砲とどろくなか、乃木希典は妻とともに自刃する。乃木夫妻の殉死は、明治を生きた様々な人々のこころを激しく揺さぶった。 その肩書は凄まじい。日清戦争では第一旅団長。台湾総督を経て、日露戦争では第三軍司令官。陸軍大将、軍事参議官となり、その後は、学習院院長として次世代の教育にも貢献した。明治時代の代表的な軍人である。, 妻の名は「乃木静子(のぎしずこ)」。 静子が希典の自刃の前に、自殺をはかったとも考えられる。致命傷は、心臓右奥を貫いていたというから、希典の助けもあってのことだろう。静子の衣服を整えてから、希典は十文字に割腹し、咽喉を突いて絶命した可能性も。, 一方で、静子が夫の希典の死を見守ってから、自分もあとを追ったとも推測できる。短剣で胸のあたりに4か所の刺し傷があったようだが、刺しては死ねずに引き抜き、更に刺す。最後は、上からのしかかって、自分の体の重みで心臓右奥を刺したとする説もある。, そして、国民の反応は、衝撃から一転、感激へと変わる。 忠重の墓は、今も信之の墓の隣で主君を守っています。, 一方、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、徳川家光の死に殉じなかったことを非難されました。しかし信綱は、家光から家綱の補佐を頼まれたことと、恩を受けた者がみんな殉死してしまったら誰が徳川家を支えるのかと反論したそうですよ。, 確かにこれももっともな言い分です。だからこそ殉死が禁じられたのですよね。 忠重が信之の手を引いて、死出の山を越えて行ったのでしょうか。 何も変わったことのない、いつもの朝だった。いや、1つ変わっているとすれば。この日の2人は終始、にこやかであったという。, 夫の名は「乃木希典(のぎまれすけ)」。 すると忠重は「死出の山がどんな高さだろうと、私があなたのお手を引いて差し上げますよ」と答えたそうです。, 信之が92歳で亡くなった時、忠重は84歳になっていました。 島津歳久:27人 「軍人の鑑」のような希典を、軍部が放っておくワケがない。明治27(1894)年の日清戦争にて、第一旅団長として出征。1日で旅順を占領。その後は、中将を経て、台湾総督に就任。, 明治37(1904)年の日露戦争では、第三軍司令官として出征。難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃するも陥落せず。延べ15万人の兵力を投入し、そのうち約6万人が死傷。戦死者は1万5,000人と、その犠牲の多さに国内からも批判が出る。, そのため、指揮権を児玉源太郎(こだまげんたろう)総参謀長に委譲。結果的に203高地を占領し、ここから停泊するロシア太平洋艦隊を砲撃したのである。 こうした「殉死」はいつまであったのでしょうか。, 乃木陸軍大将は大正元(1912)年9月13日、明治天皇の大葬が行われた日に夫人と共に殉死しました。 1 「乃木希典」とは何をした人? 愚将と言われるも真の評価は凄かった! 1.1 名将か? 愚将か?戦上手か?戦下手か? 1.2 世界で評価された「乃木希典」将軍; 2 乃木希典の名言! 「武士道」とは何か! 2.1 辞世(亡くなる直前に残した歌); 3 乃木希典の最期! 殉死した理由がスゴかった! 先生が乃木大将の殉死をここまで真剣に受け止めていたことから、 『こころ』という作品は、明治時代以降の、近代的民族主義 (欧米の思想と日本思想の混在) における人々の精神の変容を内包している といわれている。人のこころって変わっていくよね。 もの殉死者が出たといわれています。(殉死者に殉死したという人数も含む), 伊達政宗については、家臣が15人、陪臣が5人ということです。政宗の墓所に彼らの墓もありますよ。, 細川忠利は、細川忠興の息子です。 『神社で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2015年6月 凱旋帰国した乃木希典は、明治天皇に報告。その際に、涙を流して、「仰ぎ願わくば、臣(私)に死を賜え」と平伏したという。, 「今は死ぬべきときにあらず。もし死を願うなら、朕が世を去りてからにせよ」 夏目漱石が乃木希典の殉死に影響を受け執筆した作品である。夏目漱石作品の中でも特に人気なのは間違いないでしょうね。教科書にも取り上げられ続けていますし、実際ここでの漱石関連の質問は「こころ」に関するものが多いように感じられます。 そして、信之との生前の約束があるので殉死を許可して欲しいと幕府に訴えたのです。幕府は、それなら仕方がない、高齢でもあることだし・・・ということで特例として殉死を認めたのだそう。 先に述べた近代資本主義という考え方にも関わってくるのが、「明治の精神」という言葉です。遺書の中で、先生自身は自分の自殺の理由を「明治の精神」への殉死であると述べています。 真田信之(信幸)には、鈴木忠重という家臣がいました。幼いころ昌幸に養育され、出奔したこともありますが信之が再び受け入れ取り立てた者です。そのため、忠重は信之に大恩を感じていました。, ある時、2人は松代城の庭にある築山に登りました。すると信之が「若い頃ならこんな山は飛び越えられたのにな。死出の山とはこんな高さなのだろうか」と言います。 乃木希典の肖像と解説。 乃木希典 のぎ まれすけ (1849〜1912) 現在のカテゴリー: 生年月日順:1840年代 [ 前の人物 | 次の人物 ] 大正元年(1912)9月13日、陸軍大将・乃木希典のぎまれすけが自刃しました。 この日は明治天皇が大喪たいそうの礼が行われた日。 日本武家社会において、殉死は中世から近世に行われていたものの、江戸幕府によって禁止されました。 というわけで、時代錯誤ともとれる乃木希典の殉死。 弔砲の合図と共に寺の鐘が鳴り響く。 順調に大佐、少将と昇進していくが、なかなか軍旗喪失で味わった鬱屈の思いは消えず。 © SHOGAKUKAN INC. 2017-2020 ALL RIGHTS RESERVED. 乃木希典は親しみをこめて「乃木大将」「乃木将軍」と呼ばれています。まずは、どの様な人物だったのか略歴から見てみましょう。嘉永2年、長州藩士乃木希次の三男として誕生。戊辰戦争や西南戦争にも … 乃木希典 (1849〜1912)  出典:近代日本人の肖像(近世名士写真 其1), その転機となったのが、明治19(1886)年のドイツ留学だ。陸軍制度の研究視察のためであったが、そこで、希典はドイツ陸軍の規律正しい姿に感銘を受ける。, 例えば、ドイツ留学を終えて帰国してからは、軍服を片時も脱がずに過ごしたといわれている。ただ、職業が「軍人」なのではない。生き方や人生そのものが「軍人」なのだ。だからこそ、常に軍服をまとい、ストイックすぎる生活を自分に課したのだろう。, しかし、残念ながら、それが全員に評価されるものでもない。度が過ぎる生真面目ぶりは、軍首脳陣からも疎ましく思われ、あえなく左遷。これに嫌気をさした希典は、一時休職。栃木県の那須にて農業を営む生活に身を置くのである。, ただ、やはり。 誰よりも早く朝4時半に起床し、質実剛健を地でいくような日々だったという。大の酒好き、煙草好きだった希典だが、寮生活中は禁酒禁煙を守るほど。剣道、水泳合宿、遠足等も生徒と行動を共にすることがほとんど。赤坂の自宅に帰るのは、月に1度か2度だった。, 乃木希典が院長をしていた時代には、あの昭和天皇も通われていた。天皇の教育に携わることを命じられるほど、希典は明治天皇からの信頼が絶大であったといえる。, じつは、乃木希典が自刃したいと思ったのは、これが初めてではない。過去に2度、死を願ったことがある。, 1度目は軍旗を奪われる失態で。