学年別成績(2000年度) 2000年4月2日から2001年4月1日生まれの選手が対象(就学年度が同じ選手) 年数の「契」は契約年数(育成契約および本年度の契約も含む)、「出」は公式戦出場年数(本年度の … 学年別成績(2000年度) 2000年4月2日から2001年4月1日生まれの選手が対象(就学年度が同じ選手) 年数の「契」は契約年数(育成契約および本年度の契約も含む)、「出」は公式戦出場年数(本年度の … 凡例. 岩隈久志の年度別成績 年度 所属 試合 勝 敗 S 防御率 2000 近鉄 登板なし 01 〃 9 4 2 0 4.53 読売ジャイアンツのデータサイト。巨人の歴代在籍選手名鑑や年度別試合結果、怪我人情報など。npb12球団や野球日本代表侍ジャパンの情報もあります。 プロ野球、読売ジャイアンツの坂本 勇人の情報です。プロ野球を楽しむならdメニュースポーツ!試合速報や選手データ、最新ニュースを無料でご覧頂けます。 チアゴ・ビエイラ選手の年俸・背番号の推移について調査してみました。各年度の年俸や打撃成績・投球成績等も確認できます。2020年各出場試合成績も確認でき、打席ごとの結果も見てみよう。 藤田 元司(ふじた もとし、1931年 8月7日 - 2006年 2月9日)は、愛媛県 新居浜市出身(越智郡 宮窪村 四阪島生まれ)の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。. 通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したv9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録し、巨人キラーとしてその名を轟かせた。巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみで、最高勝率は星野である。 プロ野球、読売ジャイアンツの坂本 勇人の情報です。プロ野球を楽しむならdメニュースポーツ!試合速報や選手データ、最新ニュースを無料でご覧頂けます。 1.1 1959年 巨人 プロ入り1年目(19歳) 年棒144万円. プロ野球、年度別日本シリーズの結果一覧 - 日刊スポーツ新聞社のニュースサイト、ニッカンスポーツ・コム(nikkansports.com) 2012年度分からの全試合結果、個人別成績、コース別成績、条件別状況別成績、観客動員、セイバーメトリクス、選球眼指標等公開しています。 2020年度 松原 聖弥【巨人】打撃成績詳細(状況別) プロ野球、読売ジャイアンツの菅野 智之の情報です。プロ野球を楽しむならdメニュースポーツ!試合速報や選手データ、最新ニュースを無料でご覧頂けます。 ウィーラー(ゼラス ウィーラー - 読売ジャイアンツ)の選手情報・プロフィール・成績。他では見られないプロ野球の詳しいデータを掲載。チーム成績、選手成績。 プロ野球、読売ジャイアンツの山下 航汰の情報です。プロ野球を楽しむならdメニュースポーツ!試合速報や選手データ、最新ニュースを無料でご覧頂けます。 1.1.0.1 成績; 1.2 1960年 巨人 プロ入り2年目(20歳) 年棒160万円. [74]。, 2006年10月2日よりスタートした、日本テレビ系列のニュース番組『NEWS ZERO』にて、スペシャルコメンテーターとして不定期に出演した。, 2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピックだが、本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。, 北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した[75]。一方で、選手との意思疎通を欠いたことや、参加国が同一条件であるにも関わらず、日本と違うストライクゾーンや日本と違う午前中の試合を言い訳として挙げたことや、「批判は甘んじて受ける」と言いながら、帰国会見では「日本はすぐたたきにかかる。そんなことをしたら若い人が夢を語れなくなる。たたくのは時間が止まった人間だろう」といった発言が批判の対象となった[76]。, 北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らを投手コーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言し、代表監督は巨人監督の原辰徳が兼任で引き受けることとなった。, 2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティ番組『星野仙一の熱血・仙一夜』がMBSラジオにて放送される。, 2010年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神SDの辞任と退団を発表した[77]。その後、同27日に宮城県仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った[78]。選手・監督通じて初めてパシフィック・リーグ加盟球団に所属することとなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。ヘッド兼打撃コーチに再び田淵を招き、バッテリーコーチには大学の後輩三輪隆、二軍コーチに仁村薫、関川、種田仁を招聘した[79]。メジャーリーグ経験者の岩村明憲や松井稼頭央を獲得。, 初年度となった2011年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地・クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)が損壊したこともあり、公式戦開幕が2週間延期され、開幕当初は代替で阪神甲子園球場など関西地方でホーム試合を行なっていた。成績は仙台に戻ってからの5月以降に本拠地で5連敗するなど下降し、8月には7連敗で5位まで落ち込むが、同月後半には逆に7連勝するなどあって一時は3位に浮上し、オリックス、西武とのクライマックスシリーズ進出争いに加わったが、最終的には3位西武と3ゲーム差の5位に終わる。楽天の監督として日本野球機構の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたこの年のオールスター第3戦がKスタ宮城で開催されることになった。オフには創設当初から4番としてチームを牽引してきた山崎武司に星野自ら戦力外通告を行い退団させた。この年の山崎は故障で離脱し、2004年以来7年ぶりに規定打席を逃したものの統一球が導入され本塁打が減少する中でチームトップの11本塁打を打っていたが若返りを図るために戦力外を通告した。またフロントで福田功[80]、スカウトで早川実[81]、二軍打撃コーチに田代富雄[82]を招聘した。, 2012年5月11日、対オリックス7回戦(京セラドーム)において、投手出身監督[83]、及び戦後生まれの監督としては初となる監督通算1000勝(876敗42分、2012年5月11日当時)を達成した[84][85]。2004年の王貞治以来、史上12人目の記録となった。ちなみに翌12日も勝利し、自身の名「仙一」と同じ1001勝目となった際、「おーっ、2000勝まであと999勝か」とコメントして報道陣を笑わせた[86]。戦力外にした山崎、メジャーリーグに移籍した岩隈久志の退団に加え、前半戦は田中将大、松井稼頭央、嶋基宏、ルイス・ガルシアら主力の離脱が目立ち戦力低下が不安視されていた。しかし、釜田佳直、辛島航、枡田慎太郎、銀次などの生え抜きの若手を抜擢、リリーフだった美馬学を先発に転向させるなど、徐々に頭角を現す。これらの若手選手は「星野チルドレン」とも呼ばれた[87][88]。5月20日、福岡ソフトバンクホークスと入れ替わりで3位に浮上。その後も上位争いを続け、7月18日に球団創設8年目で初の前半戦を勝率5割以上、Aクラスターン入りの3位で終えた。後半戦は復帰したベテランが不調で引き分けを挟み、8連敗で5位に転落。8月中旬の西武戦では開幕戦以来となる同一カード3連敗を喫した。しかし9月に入ると勢いを取り戻し、7日からの西武戦で3連勝して4位に浮上。最終的に3位ソフトバンクと1ゲーム差の4位となった。最終戦に勝利し、勝率はちょうど5割となった。同年をもってヘッドコーチの田淵は解任されたが、田淵は「楽天にオーナーと仲良くてデーブ大久保が来て、俺は彼に書き回された。」[56]と述べている。, 2013年、前年オフに星野がオーナーの三木谷浩史に食事した際に「外国人にカネを掛けないと勝てないですよ、それが野球の有効投資。強くなれば人気も出る」と直言した。球団社長の立花陽三は、編成を担当していたアマ・スカウトグループマネジャー楠城徹ら5人を一斉解雇し、野村克也の名誉監督を更新しなかった[89]。現役メジャーリーガーのアンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギー、斎藤隆を獲得し、ドラフトでは2位に則本昂大を指名し、その則本を開幕直前に行われたWBCに出場していた田中の疲労を考慮し開幕投手に抜擢した。4月19日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)の8回表二死一塁の場面で、ジョーンズの打席、二死一塁カウント1ボール2ストライクから成瀬善久の投じた外角低めいっぱいのストレートを見逃し三振と判定される。これを不服とし球審の橋本信治に暴言を吐いたとして2002年8月23日の対巨人戦以来3892日ぶりとなる退場処分を受けた(通算6度目、楽天監督就任後初の退場処分)。前半戦は球団初の首位で終えた。9月26日の対西武戦(西武ドーム)で球団史上初のリーグ優勝を達成した。異なる3球団をリーグ優勝させた監督は三原脩(巨人・西鉄・大洋)、西本幸雄(大毎・阪急・近鉄)に続き史上3人目、セ・パ両リーグ優勝に導いた監督は三原(西鉄・大洋)、水原茂(巨人・東映)、広岡達朗(ヤクルト・西武)、野村克也(南海・ヤクルト)、王貞治(巨人・ダイエー)に続き史上6人目。2013年の巨人との日本シリーズでは4勝3敗で日本シリーズ制覇を達成し、楽天初と同時に自身初の日本一になった(自身唯一の日本一でもある)。66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録である。, 2014年、5月26日に持病の腰痛が悪化、この日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を休養。同戦は一軍投手コーチの佐藤義則が指揮を執った[90][91]。その後の検査で腰椎椎間板ヘルニアと、難病(=特定疾患)の一種である胸椎黄色靱帯骨化症と診断され、翌27日、球団は星野の同日以降の休養を発表し、佐藤が監督代行を務めることを発表した[92]。その後手術を受け、無事に終了したことが6月17日に球団から発表されている[93]。6月30日にはこの年監督として指揮を執るはずであった、オールスターゲームの出場を辞退、星野は総監督に就き、佐藤がオールスターゲームの監督代行を務めることになった[94]が、7月2日付で楽天の監督代行に大久保博元が就いたことから(佐藤は一軍投手コーチに専念)、オールスターゲームの監督はいったん白紙に戻された。NPBは星野にオールスターゲームの監督を要請し、7月3日に星野がオールスターゲームで指揮を執ることが発表したが[95]、7月12日に球団から体調の回復が間に合わないとして、指揮を辞退することが発表された[96]。最終的には、千葉ロッテマリーンズ監督の伊東勤が全パ監督を務めることになった。7月24日の楽天の全体練習から監督に復帰[97]、翌25日の対日本ハム戦(楽天Koboスタジアム宮城)から試合に復帰したが[98]、この年チームは低迷。9月18日に今季限りでの監督退任を発表、同日行われた記者会見で星野は退任の理由を成績不振とこの年2カ月離れていたことを挙げている[99]。シーズン最終戦の10月7日の対オリックス戦に敗れ、最下位が確定。前年優勝チームの最下位は史上5度目で、星野は飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁、野村克也に次いで史上6人目の両リーグで最下位の監督となった[100]。, 2014年11月9日、楽天のシニアアドバイザー就任が発表された[101]。2015年9月、株式会社楽天野球団取締役副会長に就任[102](死去まで - [103] 参照)。, 2017年1月16日、2017年度野球殿堂顕彰者(エキスパート表彰)に選出された[104]。, 2016年7月に急性膵炎を発症した際に膵臓がんが発覚したが、星野の意向で病については一切公にされなかった。この時点で肺に転移しており、手術はせずに抗癌剤治療を受けた[105]。2017年11月28日と12月1日には自身の「野球殿堂入りを祝う会」に出席していたが、その後体調が悪化し、年が明けた2018年1月4日午前5時25分に死去した。満70歳没。同月6日に楽天球団から正式に訃報が発表された[1][103]。楽天球団は、突然の訃報となったのは「星野の意向であったこと、人前で強気であることを貫き“星野仙一”のスタイルを最後まで全うしようとした結果である」として理解を求めた。星野の葬儀は1月6日に故人の生前の遺志で密葬として三重県津市で執り行われたという[106]。1月8日には楽天の本拠地である楽天生命パーク宮城に献花台が設置され、楽天ファンらが訪れ花を手向けた。この日の来場者は9527人に上ったという[107]。, 星野が監督を務めた中日と阪神の両球団は、3月10日に阪神主催で実施された阪神甲子園球場での両チームのオープン戦を星野の追悼試合とした。試合では半旗が掲げられ、阪神は星野の監督時代の背番号「77」を、中日は背中に監督時代の背番号「77」と左胸に中日選手時代の背番号「20」をつけた特別ユニホームでプレーした[108]。, 楽天球団は星野のお別れの会を同年3月19日にグランドプリンスホテル新高輪にて執り行い、楽天会長兼オーナーの三木谷浩史が謝辞と弔辞を読んだ[109]。一方、阪神球団は同月28日にハービスOSAKAでお別れの会を執り行った[110]。, 3月26日、楽天は星野が監督時代につけていた背番号「77」を永久欠番にすると発表した[1][111]。, 小学4年生の時、姉に高校野球を見に連れて行かれたことをきっかけに野球を始める。後述の通り母子家庭で生活が苦しい中、母が生活費から1000円を捻出、仙一のグローブ購入に充てた[112]。, 小学6年生の時には同じ学年の障害を持った友人を1年間毎日、おんぶして学校まで登校していたと自著で述べている[113]。, 子供の頃から熱烈な阪神ファンで、阪神が負けた翌日は悔し紛れに巨人ファンの人と喧嘩した。, ボランティア活動に熱心で、選手には「人生の1%をボランティアに捧げ」と説いている。実際自身は毎年のように地元岡山の障害者施設に寄付を行っている。ボランティアの重要性は自著[要出典]でも述べている。1984年から岡山市にある福祉施設旭川荘に訪れティーバッティングなど、多くの野球用具を寄付した。旭川荘ではティーボールチームが発足し、星野の名を冠したティーボール大会が毎年11月に開催されている。倉敷で秋季キャンプをしているため星野自身もこの大会に出向いて選手を激励してる。, 「今の若い者は」という言い方を嫌い、「今の若い者には若い者の良さがある。今の選手には今の選手なりの接し方があるんだよ」と述べている[114]。, 上記のように卒業しても明治大学に熱い愛情を持っており携帯の着信メロディには明治大学校歌を使用していたという[115]。, 現役時代・監督時代を通じて6回日本シリーズに挑戦しており、いずれも巨人出身監督と対戦し5回連続して敗退〈1974年(現役)金田正一(ロッテ)、1982年(現役)広岡達朗(西武)、1988年(監督)森祇晶(西武)、1999・2003年(監督)王貞治(福岡ダイエー)〉していたが、6回目の2013年(監督)原辰徳(巨人)で初優勝した。, 選手の心をつかむ人心掌握術には定評があった。反面、選手は威圧的なその振る舞いを非常に恐れていたともいわれ[116]、グラウンドでは闘志を剥き出しにする激しい気性であった。しかし、グラウンドを離れると気配りを欠かさない人物であった[117]。, 中日での監督時代は緩慢なプレーをした選手を殴っており、中村武志はほとんど毎日のように殴られ、小島弘務は血だらけになった口元をタオルで押さえていたこともあったという[118]。, 山本昌はテレビ番組に出演した際に、井上真二からホームランを2本も打たれたことに激怒した星野から「お前、名前も知らん選手にホームラン打たれやがって」と激しく殴られ、顔が腫れ過ぎたため降板したことがあるというエピソードを披露している[119]。また山本昌は星野が中日の監督を務めていた頃を「要するに打たれたら、いつだって叱られた」と振り返っており、星野が試合後に行っていたミーティングにおいて自身は「叱られ役」であったと話している。一方で「言葉のフォローなんかしてくれない人だけど、僕を試合で使ってくれた」と感謝の意を述べてもいる[120]。, マーティ・キーナートは、アロンゾ・パウエルが星野の体罰行為には不満を持っており、1997年のシーズン中に星野が打ち込まれたリリーフ投手に殴るなどの激しい暴行を加え、病院行きになるほどの怪我を負わせた翌日、「自分がそんなに強いと思うなら、私を殴ったらどうだ。救急車で病院行きになるのはあなたのほうだぞ。これ以上、ほかの選手を殴るのはやめてくれ」と訴えたと記述している[121]。ただし、パウエル本人は星野と対立したと伝わっていることについて「皆からそう聞かれるんだよ。本当に正直に言うけれど、対立したことなど全くなかった」と笑いながら答え、またパウエルは星野について「普段は優しい人」「私やダネルに“何か必要なものはないか”と尋ねてくれたり“これで食事に行きなさい”とお金を渡してくれたり、本当に良くしてもらった」「勝利に対して貪欲な人。どんなことをしてでも勝ちたいという監督だったと思うし、私は好きだった」と語ったという[122]。, 良い監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており[123]、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた[124]。週刊誌AERAは「マスコミを味方に付けた状況判断と手際のよさは天才的」と評し、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評する[125]。, 中日では2度、阪神・楽天で優勝を果たしているが、すべて前年5位以下の低迷時に引き受け、4年以内に優勝を果たし、40年間、毎年代(1988年、1999年、2003年、2013年)で優勝監督になっているのは星野だけである[114]。, 星野曰く「ワシはな、何と言うか完成されたチームを任されるのはいやなんや。中日時もそうやった。戦力を整備して、チームを立て直す。これに快感を覚えるんや」とのこと[126]。, 選手を入れ替えることが多く中日監督時代は第一次政権で39人放出し28人を入団させ、第二次政権でも平均9人を放出し[127]、阪神監督時代の2002年オフには球団に選手70人のうち3分の1は入れ替えないとダメだと述べ、入れ替わった選手は27人を数えた[128]。, 阪神の球団社長だった野崎勝義は「戦力を現場に与えるのはフロントの仕事である。星野監督はトレードもFA選手の獲得交渉も、自ら出馬してまとめてしまう。試合での存在感はもとより、コーチや選手を集める能力が秀でていた。優勝するチームを作れる。GM的な監督であった」と著書の中で記している[128]。, 一方、上記のように中日監督時代に2度、阪神監督時代に1度リーグ優勝しながら日本シリーズではいずれも敗退し、北京五輪でもメダルを逃したことで「短期決戦に弱い」との評価もされていた[125] が、楽天監督としてリーグ優勝した2013年にはクライマックスシリーズを4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で、日本シリーズを4勝3敗でそれぞれ制し、自身初の日本一となった。, 中日監督時代より数多くの激しい抗議をしていたが、セ・リーグ審判員の谷博によればほとんどが選手に喝を入れファンを盛り上げるための演技で、審判に断りを入れてから開始していたという。監督として中日(4回)、阪神(1回)、楽天(1回)合わせて6度の退場処分を受けているが現役時代に退場になった事は1回も無い。, また中日監督時代から先述の中村武志を初めとした高卒ルーキーの抜擢や若手の育成に定評がある[129]。, 監督時代は四球を出すことを嫌っており、先発した投手が四球を連発したりワンポイントなどで登板した投手が先頭打者に四球を出すと激怒することがあった[130][131]。これは星野が高校時代に四球を出すと監督から殴られた経験があったからだと思われる[132]。, 野球関係では、中日時代の先輩にあたる板東英二、東京6大学時代の同学年生である田淵幸一・山本浩二(二人は法政大学)などとの親交が有名。北京オリンピック野球日本代表では田淵・山本がコーチとして入閣したほか、2010年に星野が楽天監督となった際には田淵をヘッドコーチに招聘した。田淵は「仙ちゃん」と呼んでいたが、阪神の監督、コーチの関係になって以降は「監督」と呼んでいた[56]。, 歌手の小田和正とは現役時代から[156] 30年来の友人で「仙ちゃん」、「和正」と呼ぶ仲で星野が楽天監督時代の2013年4月2日の本拠地開幕戦(対オリックス戦)では小田が始球式を務めたり[16]、笑っていいとも!のテレフォンショッキングでは小田からの紹介で1984年2月15日に出演した[157]。, 元三井住友FG・日本郵政社長の西川善文、ファッションデザイナーのコシノヒロコと交友があった。星野の大阪後援会では西川が会長、コシノが副会長(婦人部部長)を務めていた[158]。, 当時は現行の1都道府県に1校(北海道と東京都は2校)と言う出場枠の制度ではなく、一部地域では隣接の都道府県との合区となっていた。現行の制度となったのは, 、『週刊プロ野球データファイル』2011年1号、ベースボール・マガジン社、P21-P24, プロ野球回顧録(6)引退特集 引き際の美学 2017年 01 月号 [雑誌]: ベースボールマガジン 別冊、2016年、48頁, 稲尾については、『神様、仏様、稲尾様』(日経ビジネス人文庫版)よりP229-234「気持ちで投げる星野仙一」を参照。, 木俣達彦著、ザ・捕手~私が出会った監督・選手たち、中日新聞社、2011年、P267, ベースボールマガジン2015年3月号、P18、指揮官だってルーキーだ 監督1年目の群像, ハードプレイ・ハード―勝利への道、2000年、文藝春秋、P64.体調不良で一年で辞めたものの、翌年巨人のコーチに復活。星野によると、巨人の上層部がなぜ中日のピッチャーが急によくなったんだ。なぜ追い出した奪い返せと大号令があったという。, ハードプレイ・ハード―勝利への道、P62,65-67。1997年オフに宮田の前にコーチ要請したが、巨人からコーチ要請断った事情と夫人の体調が思わしくなかった時期があり断れた。, ハードプレイ・ハード―勝利への道、P79。96年オフ、97年オフと2年連続でコーチ要請したが高代が当時コーチだった広島に断られ, ホークス75年史―南海、ダイエー、ソフトバンクー継承される栄光の歴史ベースボール・マガジン社、2013年, 野村克也著『あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由』2008/02/10出版 角川書店, 当時オリックスのスカウトだった山口に「もう、いい加減ユニフォーム着たらどうだ」と言い、オリックスを退団し就任に至った。, 『阪神タイガース 栄光の75年 1935-2010』(2010年、ベースボール・マガジン社発行) p90, 初勝利は中日時代の1987年4月12日(巨人戦)。それから25年後、1918試合目での達成となった, 日本プロ野球監督列伝―1936ー2014、2014年、ベースボール・マガジン社、P77, “星野仙一氏死去 死因はすい臓がん 楽天が発表「最期は昼寝でもしているような安らかな表情」”, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/06/kiji/20180106s00001173071000c.html, 【10月12日】1974年(昭49) 中日 20年ぶり優勝が吹っ飛んだ 長嶋茂雄引退を表明, ONに真っ向勝負した星野仙一さん、“流し打ち”王さんに文句 ミスター「心を燃やすことができた」, 【8月26日】1981年(昭56) 宇野勝ヘディング事件 星野仙一が怒ったもう一つの理由, Hawks vs.Dragons99日本シリーズ/旧敵将森氏、両監督を語る◆王監督/選手の輪に入った、星野監督/激情家が我慢した, NHKスペシャル 阪神を変えた男 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス, http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20101019-OYT1T00727.htm, http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20120716-984080.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140527-1307610.html, http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/270661/, http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/4704.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/01/16/kiji/20170116s00001000193000c.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201801070000052.html, https://www.nikkansports.com/baseball/news/201803260000680.html, 本郷陽一「追悼。闘将・星野仙一氏の鉄拳と人情と再建手腕。「この男をつまみ出せ!」」, 【Sports Watch】山本昌氏が星野仙一氏とのエピソードを暴露 「だいぶ殴られた」, http://web.archive.org/web/20011230005647/journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=98668, 50歳現役を叶えた運命の出会いと 崖っぷちで掴んだ最強の武器|元中日ドラゴンズ 山本 昌|小松成美が迫る頂上の彼方, 落合すら叱った星野仙一さんの「優しさ」…コーチに破格のご褒美、一般人を叱責後に一緒に写真, ファミリーヒストリー 星野仙一〜父と母の生きざま 燃える男の原点〜 2015年5月22日放送 22:00 - 22:50 NHK総合, ファミリーヒストリー 星野仙一〜父と母の生きざま 燃える男の原点〜 2015年6月5日放送 22:00 - 22:50 NHK総合, http://www.sankei.com/region/news/141005/rgn1410050068-n1.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=星野仙一&oldid=80779817, 中日ドラゴンズ (1981 - 1982, 1987 - 1991, 1996 - 2001), 山本昌は入団4年目まで一軍登板4試合、0勝だったが、入団5年目の1988年2月、業務提携していた, 1987年から1996年は130試合制、1997年から2000年は135試合制(引き分けは再試合)、2001年から2004年は140試合制、2007年から144試合制, 2014年、病気療養期間59日間の40試合(17勝23敗)は通算成績に含まない(監督代行は, 500試合登板:1982年10月12日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤ球場)、8回表に6番手で救援登板、1回3失点 ※史上50人目, 『迷ったときは、前に出ろ!:タイガース再生への道、険しくとも』(2002年10月、, 『シンプル・リーダー論:命を懸けたV達成への647日』(2005年4月、文春文庫、文藝春秋), 『星野仙一「世界一」への方程式:トップを目指し続ける男の「頭の使い方」』(永谷脩著、イースト・プレス、2008年5月、, 「阪神を変えた男〜星野監督・改革の舞台裏〜」(2003年9月20日)※死去後の2018年1月11日『BS特集』にて初の再放送。, 『2010プロ野球全選手カラー写真名鑑』(『週刊ベースボール別冊』桜花号。2010年4月20日、ベースボール・マガジン社発行)…「日本テレビ(スポット)」と明記。, 『12球団全選手カラー百科名鑑2010』(『廣済堂ベストムック』151号。2010年2月17日発売、廣済堂あかつき発行。. プロ野球、年度別優勝球団(セ・リーグ)の一覧 - 日刊スポーツ新聞社のニュースサイト、ニッカンスポーツ・コム(nikkansports.com) 1.1.0.1 成績; 1.2 1960年 巨人 プロ入り2年目(20歳) 年棒160万円. 1.2.0.1 成績; 1.3 1961年 巨人 プロ入り3年目(21歳) 年棒300万円. 藤田 元司(ふじた もとし、1931年 8月7日 - 2006年 2月9日)は、愛媛県 新居浜市出身(越智郡 宮窪村 四阪島生まれ)の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。. 松本 哲也選手の年俸・背番号の推移について調査してみました。各年度の年俸や打撃成績・投球成績等も確認できます。2017年各出場試合成績も確認でき、打席ごとの結果も見てみよう。 星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - 2018年1月4日[1])は、日本のプロ野球選手・監督、野球解説者。, 岡山県児島郡福田町(1953年、倉敷市と合併)出身[2]。選手時代のポジションは投手。セ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。, 中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務め、2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。, 高校進学に際しては、当時は岡山東商とともに2強と呼ばれていた岡山県立倉敷工業高等学校への進学を当初希望していた。しかし当時はまだ数回しか甲子園に出場していなかった岡山県立倉敷商業高等学校の野球部部長・角田有三教諭から「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて進学した。しかし星野が入学して以降の倉敷商はどんどんと力を付け、志望していた倉敷工以上の成績を残すようになった。, エースとして2年生時の1963年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、岡山東商に0-1で敗退。同年秋季中国大会県予選準決勝は津山商に1点差で敗れる。翌1964年夏も東中国大会決勝まで進んだが、鳥取県の米子南高に2-3で敗れ、今一歩で甲子園出場は叶わなかった[3]。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズに入る岡山東商・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の1年後輩にあたる。星野が卒業して松岡がエースとなった翌年も夏の県大会準決勝まで進んだが平松を擁する岡山東商に日没引き分け再試合で敗れ、倉敷商は甲子園出場を逃している。当時広島東洋カープのエースだった池田英俊のピッチングフォームの分解写真を見て、自分のフォームを研究し、写真を通してではあるが高校時代の目標であり、恩師のような存在と記している[4]。, 高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学[5]、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが[5]、倉敷商の矢吹怗一監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという[5]。野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学野球リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振[6]。1968年度主将。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学や、谷沢健一、荒川尭らを擁する早稲田大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。4年時の1968年秋季リーグは、投手陣に同期の池島和彦、打線も小野寺重之、辻哲也など実力者が揃い優勝が期待されたが、3位に終わる。, 大学時代は島岡吉郎監督の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。その反面、島岡から体罰を受けることがなかったという。星野曰く、「俺は要領がよかったから」とのことだが、島岡自身は「星野は殴ると理屈をこねそうだったから」と、星野を殴らなかった理由を語っている。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという[7]。, 1968年のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。自身は阪神ファンであったが[8] 阪神と明治大学の仲が悪く阪神から指名された場合、社会人野球に行くこととなっていた。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。, 1969年の入団1年目は5月8日の巨人戦で黒江透修からサヨナラ二塁打、7月10日の滝安治からサヨナラ二塁打を打たれるも、49試合に登板し8勝を挙げる[8]。またこの年の10月10日の巨人 - 中日戦で金田正一(巨人)が通算400勝を達成した試合の中日の敗戦投手が星野であり、自身も「歴史的な試合で名を残せて良かった」と後々まで語っていた[9]。, 1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍、チーム事情もあり、14年間の選手生活の中で、先発中心で起用されたのは5年ほどしかない[8]。現役通算で8回の二ケタ勝利(うち15勝以上4回)、2回の二ケタセーブをマークしている。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった[11]。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、最終戦となった第6戦目には弘田澄男に決勝タイムリーを打たれ、チームも2勝4敗で敗れた。, 1978年は8月17日に大洋戦で福嶋久晃からサヨナラヒット、9月19日のヤクルト戦で船田和英、9月20日のヤクルト戦で杉浦亨から2試合連続でサヨナラ本塁打[12] を打たれた。, 1981年からは投手コーチ補佐を兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。引退理由としては体力の限界もあったが監督の近藤貞雄と確執も要因となりリーグ優勝祝勝会の時点ではコーチ就任が濃厚と言われていたがコーチとしても残る事も無くチームを離れ、11月21日のファン感謝デーで「長い間ありがとうございました。私はついに燃え尽きました」と挨拶した[13]。 同年の日本シリーズでは出場はなくコーチ補佐として出場したが西武ライオンズに2勝4敗で敗れた[14]。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている」と記している[15]。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった[16]。, ドラフトに際しては、巨人と星野との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」との密約が事前にあったとしている[17]。しかし巨人は高校生投手の島野修を1位指名し、星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と悔しがった[17]。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録し、巨人キラーとしてその名を轟かせた。巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみで、最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主催試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野の指名を回避したのは、星野が肩を壊しているという情報を入手したことが理由で、現役引退後に川上哲治(当時の巨人監督)から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著[要出典]に記している。王貞治には対戦成績195打数62安打、打率3割1分8厘、被本塁打は24本と打ち込まれた一方で、長嶋茂雄は111打数26安打、打率2割3分4厘に抑え込んでいる[18]。, 巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、巨人を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし、阪神打線は凡打を重ねて敗戦し、2日後の阪神との優勝決定戦となる最終戦に勝利した巨人は逆転でV9を達成した(星野自身も、試合途中で髙木守道に「こんなチームに勝たすことはない」とその無気力投球を咎められ、以後は気持ちを入れ替えて真剣に投げたという)[要出典]。なお、この日阪神の先発投手であった江夏豊は、星野も必死で投げていたとこの話を否定している[19]。, 珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)[20]。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた[20]。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)[20]。, 星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがあるが、当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と、メディア向けの星野によるパフォーマンスであったと指摘している[21]。近藤は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と記している[22]。, 1983年から1986年までNHKで野球解説者、日刊スポーツ、Number[23]の野球評論家を務め、1985年には大塚範一、野中ともよとともにNHK総合テレビ『サンデースポーツスペシャル』の初代キャスターに就任[24]。ゴルフの「マスターズ」選手権には、必ず現地まで出向いてリポートを行っていた。, 1986年10月29日、同年途中で休養した山内一弘の後任として中日の監督に就任。背番号は「77」(川上哲治が巨人監督としてこの背番号でV9を達成したことに肖ったもの)。NPB史上初の戦後生まれの監督となった[25]。球団からの監督要請を受ける時、「召集令状がきた」と感じたといい[26]、「笑ってください」と注文をつけてきたカメラマンに対し「これから戦場へ行くのだ。笑えるか」と真剣に怒ったというエピソードが存在する[26]。総合コーチに木俣達彦[26]、投手コーチに池田英俊[4]、二軍監督兼寮長に岡田英津也[27] を招聘した。就任後は谷沢健一に水面下で引退を勧告し[28]、谷沢は引退。ロッテから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得し、以降、今中慎二、山崎武司、上原晃、音重鎮、大豊泰昭など主力級が3年間で入団する[29]。投手では川畑泰博、江本晃一、宮下昌己、打者では仁村徹、彦野利勝、小松崎善久、中村武志といった実績のない若手を次々と起用して成功した[30]。, 山本昌広をアメリカ合衆国への留学で才能を開花させ、先発投手の郭源治を抑えに、遊撃手の宇野を二塁手に、捕手の中尾を外野手にコンバートするなどチームカラーを一新する。特にレギュラー捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、中村本人は第二次星野政権時代に「(第一次政権では)鉄拳制裁を受けなかった日にちを数えた方が早かった」と語っている。山本は「第一次政権で抜擢された若手で鉄拳を浴びていないのはおそらく立浪和義ぐらいではないか」と記している[31][32]。選手を怒鳴りプレッシャーをかけ、「俺のプレッシャーに負けるような奴が、ここぞの時に踏ん張れるか、そんな奴は要らねぇ」と述べている[33]。, 1987年5月2日の広島戦では正田耕三のタッチプレーを巡り両軍乱闘し広島のコーチ伊勢孝夫と揉み合い回し蹴りして[34]、伊勢と共に退場処分となり[35]、現役通して初の退場となった。監督1年目の退場は宇野光雄、金田正一、ジョー・ルーツに次いで4人目[34]。, 1987年5月13日、広報の早川実が運転する愛車のメルセデス・ベンツ・ミディアムクラスの後部座席に乗車中、名古屋市中区に当時あった室内練習場に入ろうとした際に2トントラックが20~30キロの速さで追突。病院の診断で全治10日の頸椎挫傷の怪我を負う。[36], 1988年4月19日の阪神戦(岡山球場)で宇野勝のタッチプレーの判定に抗議し二塁塁審の友寄正人に暴言を吐き[34]退場処分[37]、2年連続で両リーグで最初の退場処分を受けている[34]。上記2試合の監督代行は木俣[37]。, 開幕戦は1987年4月10日の巨人戦(後楽園球場)で開幕投手に杉本正を起用したが、近藤貞雄はこれに対して「開幕投手の指名は“今年のエースはお前だ。シーズンを通して頼りにしてるぞ”という監督の意思表示だ。とすれば小松しかいない。それが杉本だった。杉本もいい投手だが、シーズン通して頼れる投手ではない」[38]と述べている。杉本は吉村禎章、駒田徳広に本塁打を打たれ、西本聖に完封勝利をくらい、0対6で敗戦。2戦も先発の鈴木孝政が打たれて連敗。監督としてのは初勝利は巨人戦の3戦目(勝ち投手は小松)。この年は仁村徹は規定打席に達しレギュラーになった。同年6月11日、熊本・藤崎台県営野球場での対巨人戦で、宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。王に「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのが当たり前じゃないですか」と言い返した[34]。後年その際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している[39]。同年オフ大島康徳、平野謙、曽田康二を放出し、大宮龍男、田中富生、小野和幸を獲得した。巨人を自由契約となった仁村薫も獲得した。, 1988年は小野、小松の先発2本柱が活躍したが完投数は12球団最少の18だった。抑えの郭、鹿島忠、川畑の中継ぎ陣、米村明、山本昌、上原晃の若手投手陣に、彦野、立浪、ゲーリー・レーシッチ、落合、宇野、仁村、川又米利、中村の恐竜打線が好調で、1点差試合が34勝15敗を記録した。郭がMVP、小野が最多勝、立浪が新人王を獲得した。西武ライオンズとの日本シリーズは1戦目、5戦目先発登板した小野、山本、杉本と先発投手が打ち込まれ、打線も4番落合(打点0)、5番宇野が低迷し西武に1勝4敗で敗れた。西武の監督森祇晶は「星野監督は選手たちに相当にらみを利かせていた。勢いで公式戦を乗り切ったが、私は負ける相手ではない。中日は前年まで西武にいた(第1戦先発の)小野が、清原、に特大の本塁打を打たれた。(第1戦に)小松が来たらイヤだなと思っていた」と述べている[40]。中日生え抜きで優勝した監督は2018年時点で星野だけである。同年オフに巨人とのトレードで中尾孝義を放出し、西本聖を獲得した。監督1年目の開幕戦で西本のピッチングを見ていつか獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた[41]。, 1991年は監督として初めて開幕戦に勝利し、前半戦は首位に立つも、後半失速し優勝した広島に3ゲーム差の2位で終わった。新人の森田幸一は抑えで活躍し、球団として初めて2年連続で新人王を輩出するなど、翌年以降のチーム采配にも期待が持たれたが、同年9月24日に「健康上の理由」により辞任を表明した。, 健康不安による辞任は表向きの理由であり、実際には妻の白血病発症が大きく関係していた。辞任後は、1992年に中部日本放送(CBC)の客員解説者、1993年から1995年に再びNHK解説者を務め、並行して1992年から1995年まで中日スポーツ客員。また、沢村賞の選考委員を務めていた(1994年から1995年まで)。, 1995年9月20日に中日への監督復帰が発表され[42]、同年オフに再任。直後に愛甲猛を無償トレードで、前田幸長・村田勝喜を交換トレードで獲得。韓国から宣銅烈を獲得した[8]。第二次政権1年目は前年の5位から2位になった。同年はナゴヤ球場の最後の試合で巨人に優勝を決められ、監督としては初めて相手球団の胴上げを見ることになった。, 1996年、9月20日の対巨人戦(東京ドーム)の試合終了後引き揚げてくる審判団を待ち受け[43]、上本孝一審判員に暴言を吐き[43]、もみ合いになった際に田中俊幸審判員を蹴るという暴行を働いた[43]。翌日セ・リーグから厳重戒告と制裁金100万の処分が科された[43]。同年オフレオ・ゴメスを獲得した[8]。, 1997年1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことで長打力偏重だったチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り機動力、守備力の不足は開幕から露呈し低迷、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。チーム打率リーグ最下位、チーム防御率5位と投打共に振るわなかった。同年オフ、関川浩一・久慈照嘉を大豊泰昭・矢野輝弘との交換トレードで獲得。またアロンゾ・パウエルは退団した[44]。投手コーチの小松辰雄は退団し後任に宮田征典を招聘[45]、打撃コーチに水谷実雄、外野守備走塁コーチに二宮至、二軍監督には仁村徹、二軍投手コーチに梶本隆夫が就任した。外国人選手では李鍾範、サムソン・リーを獲得し、南渕時高も獲得、大学の後輩川上憲伸をドラフト1位で指名した。1998年は肩の故障で伸び悩んでいた野口茂樹がエース級へ育ち[46]、14勝し最優秀防御率、川上も14勝で新人王、中継ぎ陣では落合英二が最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、新人の正津英志も活躍した。チーム打率はリーグ5位だったが、チーム防御率は12球団トップ、盗塁はリーグトップを記録し、2位へ浮上した。明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩をFAで獲得した。宮田は一年で辞任し[47]、後任に山田久志が就任し[48]、内野守備走塁コーチには高代延博[49] を招聘した。ドラフトでは福留孝介、岩瀬仁紀が入団。1999年は、1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。昨年に引き続きチーム防御率は12球団一位。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズは前評判では中日圧倒的優位だったが[50]、1勝4敗で敗れた。, 2000年、宣は引退し、サムソンは退団した。メルビン・バンチは最多勝、エディ・ギャラードは最優秀救援投手、岩瀬は2年連続で最優秀中継ぎ投手と投手陣のタイトルホルダーを多く輩出したものチーム防御率4.19でリーグ5位に低迷した。5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、立浪和義が自身への投球をストライクと判定されたことへの不満から球審を務めていた橘高淳を両手で突いて退場処分となり、立浪の退場が宣告された直後に星野は橘高に体でぶつかっていったため暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では二人のほか、別の審判員に蹴りを入れた大西崇之も退場処分となり、後日星野・立浪・大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳細は橘高の項を参照。, 出場停止5日間となり監督代行はヘッドコーチの島野育夫が務めた。同年は2位、優勝した巨人に9勝18敗と大きく負け越した。2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラスに転落。広島以外の4球団に負け越した。井端弘和は規定打席到達。5位に終わった責任をとる形で同年9月25日辞任を表明し、記者会見で「成績不振が理由のすべてではない。初監督の時は5年、今回は6年目。同じ人間が長い間権力の座に座ることは、組織上好ましくない」などと述べた[51]。, 著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している[53]。, 監督時代、第一製薬(のちの第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにベンチで興奮する姿(実際の公式戦中の映像を使用)やゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ライオンズマンション、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライス(田淵幸一・山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップスの電気カミソリ、ナショナルのVHDデッキ、テレビ、ゼブラ・シャーボなどのCMに登場[要出典]。, 中日監督を退任した直後、NHKから野球解説者復帰の打診を受けていたが[54]、2001年オフの12月17日に低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。背番号は中日監督時代と同じ77。ヘッドコーチには中日時代からの片腕的存在島野育夫[8]、チーフ打撃コーチに田淵幸一[55] を招聘した。田淵が阪神のコーチを断った場合、星野は阪神の監督を引き受けなかったと田淵に語っている[56]。, 島野は10月に中日二軍監督に就任し、複数年契約の予定であったが、胃の手術のため正式契約はまだ済んでいなかった[57]。中日との交渉は難航し、最終的には星野が中日の白井文吾オーナー、西川順之助球団社長らと会い話をつけた(西川は最初難色を示し、野崎も「私が逆の立場なら難色を示していただろう」と述べている)[58]。, 阪神との初交渉を控えた12月11日、巨人監督を勇退したばかりの長嶋茂雄とスポーツ報知の新年企画で対談した際、阪神のユニフォームを着るよう説得された。長嶋から「安芸キャンプでコーヒー飲ませてよ」と言われた際には返す言葉がなかったという。[59]。, 星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ。」と発言した[60]。球団社長の野崎勝義も「星野新監督を誕生させたのは野村克也さんの直言がキーワードになった」と記している[61], 星野は著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ。野村さんといえばご存知ID野球。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している[62]。, 同年オフ、オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史を獲得した[63]。就任1年目の2002年にはチーム史上2度目の開幕7連勝を記録し、5月・6月首位を走ったが故障者が出始めて息切れ[64]、結果的に4位に終わる。同年オフには、広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らをトレードで獲得するなど、投打の大型補強を行った。首脳陣とフロント陣では一軍ブルペンコーチに西本聖[65]、一軍バッテリーコーチに達川光男[66]、二軍投手コーチに山口高志[67]、編成部顧問に岡田英津也、伊藤菊雄[68]を招聘した。, 翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡、井川慶、アリアス、ジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠、赤星憲広、藤本敦士、吉野誠ら若手が急成長し首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たす[69]。巨人には17勝10敗1分けと18年ぶりに勝ち越した。しかしダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。, しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年は野崎が覚えているだけで試合中4回倒れており、その都度島野ヘッドが敵陣にバレないよう指揮を執っていた[70]。7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮を島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという[要出典]。, 日本シリーズ前日の10月16日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ[要出典]、シリーズ終了後の10月28日に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。星野は後任に田淵を推薦するが固辞した為[56]、守備走塁コーチの岡田彰布が昇格[71]。, 2010年に行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布に倍以上の差をつけ1位になっている[72]。, 2004年1月1日に阪神球団の「オーナー付シニアディレクター(SD)」に就任した。また、同年には兵庫県芸術文化協会より「県勢高揚功労」の表彰を受けた[73]。, SDを務める傍ら、アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのテレビコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務める。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。また、特定の放送局と専属契約をしないフリーランスの野球解説者として各テレビ放送局のプロ野球中継に出演していた[要出典]。, 2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタート(2008年閉鎖)。, 2005年8月~9月にかけて同シーズンBクラスに低迷し、3年連続で優勝を逃していた巨人の次期監督候補として名前が挙がった。巨人の球団幹部が星野と水面下で複数回にわたり極秘接触し就任要請を行ったと報道されたが、同年9月10日に大阪市内のホテルで自ら会見し阪神残留を正式表明した。「老舗中の老舗チーム(巨人)の幹部の皆様からお褒めの言葉を頂く事はありがたい」としながらも正式な監督就任要請は「なかった」と否定し、“巨人・星野仙一”は幻に終わった